(このメールは佐野珠美の個人セッションのクライアントさまでEメールニュースレター配信にご了解いただきました方へお送りしています。)
この探求グループの大きな柱としているテーマは、「人との関わり」です。そして、やっぱりゲシュタルトらしく、そのテーマを「自分自身との関わり」から始めていきます。
それを話す前に、皆さん「ゲシュタルト」の言葉の意味をご存知ですか?
ゲシュタルトの元の意味は、欠けている部分が埋まって行って円を結ぶ、その動きと聞いています。日本語にも英語にもぴったりの言葉がないそうです。ゲシュタルトセラピー的には、それを、「未完了が完了する」と、言っています。セッションの中では、それが起こっています。
未完了が完了するとある種の終わりが自然に起こります。それは、月が満ちるように、あるサイクルのあるべき満了です。それは、身体感覚を伴う実感で感じ取れます。それは本当に些細な未完了から大きなものまであります。が、身体で感じ取る満ちた感覚は同じです。
未完了を完了させることと、「コミュニケーション」には、関係があるってことを書いてみようかなと思っています。
ゴジラに豹変する私
私は、毎日毎日朝から晩まで未完了を積み上げながら生きていたと言えると思うんです。
思い返せば。
そして、その時には、未完了を積み上げているなんて認識はありません。そこには、身体の感覚があっただけ、イライラです。モヤモヤです。
イライラがつのってくると、悪態をつきます、強い言葉を吐きます。それは、まるでゴジラのよう。火を噴いて、罪もない民家を踏み潰すように、私の周りに居ると被害を被ります。
怒りの後には、嘆きが起こります。「私はそんなやり方しか知らないのだ。」「そんな自分にウンザリだ」と。
私は、そんな自分にさよならしたくて、ゲシュタルトを手に取ったとも言えるんです。
しかし、ゲシュタルトを知れば知るほど、ゲシュタルトは私に出会うことを勧めて来ました。
実際、私が知ることになったのは、「サヨナラする前にしなくちゃいけないことがある。」でした。実際、その時にはこのメカニズムを理解していません。けれど、確かな体験として、私の中の何かがすこしずつすこしずつ成仏していっている実感を得ていました。
そして、更に言ったらば、私はサヨナラするどころか、「私は、私と出会ってさえいなかったのじゃないか?」と思うに至りました。
出会ってないのにさよならすることはできない。というシンプルで当たり前のこと。
具体的に何に出会うのかと言えば、私の中で未完了になっているものたちです。なんらかの理由で私にとって終わりが欠けているもの、「unfinished business」と言われているものです。
未完了とコミュニケーションには、関係があるとわかりました。
未完了の中には、表現しなかった、コミュニケーションしなかった、コンタクトしなかった、それを止めた・中断した体験というのが多く多く含まれていると知りました。
その理由は、様々あります。
幼すぎて語彙が足りなかった。
未熟なコミュニケーション(自分も相手も)
瞬間の出来事で、表現する機会を逸してしまった。
あまりにも大きな体験過ぎた。同時に、それを感じる為のサポートがなかった。
そのコミュニティや地域や家族の中ではある種の表現が許可されない
その時共にいた人が私の感じることに耐えられない人だった
などなど
止める機会が多くなれば、それは癖になり、やがて自動的に止める為、自分が止めていることにも気づきません。もはや、得体の知れない感覚の塊が自分の身体と化します。
同時に、常に身体の内側で熾(おき)のようにチロチロとくすぶっていて、何か刺激があればすぐに着火し、炎になり、私はゴジラのように火を吹くのです。
ゲシュタルトは、私にその不快な感覚に出会うことを促してきました。
私にとってそれは、億劫だし、物によっては禁忌でした。
だけど確かにそうすると、その下に、表現したかったこと、コミュニケーションしたかった気持ち、コンタクトしたかった気持ち、が存在していると知ることになりました。
つまり、私自身のニーズに出会うということが起こりました。これは、実に驚きで、大きな喜びでした。
そして更には、私をゴジラに豹変させる、さよならしたいと思っていた不快な感覚、イライラや、悪態や、嘆き、を引き起こすものにちゃんと背景があったと分かりました。それは、肯定できそうでした。それは、希望の光でした。肯定の感覚は、井戸から水が汲み上がるようにそのたび涙として溢れました。気持ちの良い、涙でした。
イライラや嘆きやなんであれ、カラダの感覚を伴う感情の動き。これは、身体感覚、あるいは、身体の中の微細な動きとしても捉えられるものですけど、それは、ある種の完了へ行くためのプロセス、その導きであると捉えることが出来ます。
ですが、完了まで行かせずに、なんらかの理由によってそれを人は止めることをします。多くの場合は、それは、元々は「身を守る為身につけた」である場合が殆どです。これもないがしろに出来ません。
なので、それぞれの人の中に未完了がごまんとあります。今朝発生した未完了もあれば、何十年ものの未完了もあります。
一つ一つの未完了には、あなたの知恵や優しさや思慮深さ、あなたらしい質が含まれているはずなんです。
だから、敬意を払いそれらの一つ一つと出会っていくことで、その止めていたプロセスが完了へ向かって再び動き始めます。
言い方を変えると、さよなら出来ます。
つまり、出会ってないものにさよなら出来ないんです。こんなこと、当たり前なんだけれど。
逆に言えば、出会えば、さよならは、終わりは、自然に起こります。それは、とても良い終わりを迎えることが出来ます。
無理やりさよならはできません。
無理やりしたさよならには、更に未完了が発生するんです。
つまり、不快感だけ取り除くとか、私の中のゴジラだけ厄介払いするとか です。
イライラ、モヤモヤ、火を吹くゴジラ に出会うことが出来ます。完了へ向かう道へ戻してくれる存在たちです。
その下に、必ずやあなたのニーズがあります。
あなたにとっての真実があって、あなたの面会を待っています。
私にはこんなニーズがあったのだ!と、発見することは、自分の生命力に大きな貢献になります。つまり、自分を助けることが出来ます。
そして、次には、そのニーズを大切にどう表現するか、コミュニケーションの準備への意欲や動機になります。
ゴジラのニーズが、「あなたに聴いて欲しいことがある、そこに居て欲しい。」と分かったならば、全身でそれが確かめられたら、ゴジラが着ぐるみに感じられてきます。着ぐるみの内側に、自分の肌が確かにあることが分かります。
ゴジラは更にこう言い始めます。
「このニーズを表現するのに、それをあなた(伝えたい相手)に伝えるのに、相応しいやり方が今は分からない」
「だけど、そこに居て欲しい」「私を、見て欲しい」「耳を、傾けて欲しい」
今、本人には分からないかもしれないけれど、少なくともある場所から脱して、そして何かが動き始めます。伝わり始めます。何かが終わります。
着ぐるみが、自然とずるずると脱げてきています。
着ぐるみの内側の肌のある生身の私から、表現されています。
ゴジラ(の着ぐるみ)に「ありがとう」と「さよなら」が言えそうです。
少なくとも、自分が自分をゴジラだと誤解していたことは解けそうです。
少し戻ります、かっこよくさよならはできません。
誰かとも、自分ともです。
その前にすることがあります。出会うことです。
何がある?って興味と好奇心を向けることです。
そんな時に、例えば、「嘆き」に留まるということが必要になってくるかも知れません。その力、体力、筋力を養う必要があります。また、安全なやり方を知るというのも必要です。そして、自分にとってのサポートを知る必要も不可欠です。必要な時間をかけることも大事です。
そんなプラクティス(練習や実践)を、この「すこし長期的な探求グループ」でやっています。
グループで出来るってことは、朗報なんです。
人生で、多分、たった一人でやったことがあると思います。それを再現しないでください。こんなプロセスのとき、人に見せる・聴かせる必要があります。人類が脈々と作ってきたコミュニティって構造には、この孵卵器のような機能があります。
そして、コミュニティで取り掛かる選択肢がある場を選べる程にきっとあなたは成熟しています。
これは、私の経験からの話です。
それを、関わる人たちと分かち合いたいというのが私がこんな場をやろうとする動機です。そして、その人たちがそれぞれに体験的に確かめてみて欲しいなと思っています。
人の根源的なニーズ
私たちは生身の人間で、どの人にも奥底に、聴いてほしい、見ていて欲しい、触れてほしい、そこに居て欲しい、っていう根源的な欲求を持ってます。
大人になった私たちは、それをストレートに訴えることがそれを叶えることに直結するとは限らないことを学んでいます。
そこにまつわるたくさんの思いや感情や皮膚の内側にある微細な動きがあることを知ってます。ストレートに言う代わりに、それら微細な動きを辿って、文字にしたり、歌にしたり、ありとあらゆる術を身につけていきます。アートとして花開かせる人もいます。
そんな、高等技術を私たちは育ってくる間に獲得します。そこに、その人らしさを感じます。クライアントさんと関わる度に、その人それぞれ独自に磨いた感性やセンスにシビれます。
とりもなおさず、それは、「私のニーズを伝えたい。」という強い動機がそうさせます。
未完了とコミュニケーションには、関係があります。「あなた」に言わなかったこと表現しなかったことコンタクトしなかったこと、その感覚その下に、言いたかったこと表現したかったこと欲しかったコンタクトやニーズがあります。
「未完了」は、まだそこに届いていないそして、表現していないあるいは、表現を止めたときまずは身体の感覚としてそれは、捉えられます。そこに未完了の存在を教えてくれています。それに届くそれに触れる自分自身の真実を知る少なくとも知っておくそんなことをワークの中ではやっています。
世の中の多くの人が、コミュニケーションを磨こうとする動機に、それが含まれているなぁと、思っています。
この長期グループのテーマを「人との関わり」として、それを手を替え品を替え、時間の経過も材料として見ていく機会を作ろうとしています。
悲嘆や、イライラや、なんであれ様々な身体のサインを歓迎して、それに時間とスペースを与えるのはその為です。ある一つの未完のゲシュタルトが完了へと向かうそのプロセス
の可能性があるから、歓迎します。そこから教えを請うために、それともうちょっと共に居る忍耐を養います。ある時表現されなかったものが、数年の時を経て表現されます。祝福でしかありません。
自分のニーズが明確になる瞬間。そして、何かが終わっていってます。私たちのどの人にもたくさんの未完了があります。その一つ一つに出会い、完了へのプロセスへ開いて行くためにこんなエクササイズをしています。大人になったからこそつまり、表現手段を備えたからこそ出来る取り組みだと思っています。
2018年度、そして今年、ご参加くださっている方々に心からの敬意と感謝の気持ちがあります。そして、私自身もまた探求者としてともに居させてもらっています。
そうそう、なので最初に戻ると、私は今もまだ私と出会い続けている。と、言えると思います。途中途中で、身につけていてもう不要になった自分の部分とのさよならを感謝とともにしながら、びっくりするような自分がまだ自分の中で育まれていたと知ったりします。そして、ゴジラは、今も時々顔を出します。その時には、「聴いて欲しい、そこに居て欲しい」があるのだねと知るサインとして認識しています。それが出てきたら、私は、私の健康の為に、それを満たす機会を自分に与える時だと知ることが出来ます。
自分がゴジラになる必要はありません。
2020年も「すこし長期的な探求グループ2020」として、第3期を行えたらと願っております。予定では9月からです。
ゲシュタルトのセッションは、特段のアジェンダ・問題など持たずに行うことが出来ます。(もちろん、あってもいいです。笑) Not knowingの領域を探求することが出来ます。