あなたは呉の呂蒙(りょもう)という武将を知っていますか?
「三国志」に出てくる武将のひとりで、
孫権配下で、関羽を捕まえた武将として有名です。
その知名度は呉の軍師である陸遜に劣らず、知将としても活躍を見せています。
呂蒙は大変な努力家の一面も持ち合わせており、
その努力ぶりはことわざにもされているのです。
今回はその呂蒙の勤勉さに目を向けてみましょう。
呂蒙は孫権に度々重んじられてきましたが、家がもともと貧しく、学問に触れる機会はありませんでした。
出世をすると否が応でも上奏文などの書類を作成しなければならないのですが、呂蒙は部下に口述して書類を作成してもらっていたそうです。
しかし、それは将軍としてはあまりほめられたものではなく、人々は呂蒙の学識のなさを笑って「呉下の阿蒙(おばかな蒙ちゃん)」と囃したてたのです。
ですが、いつまでも「阿蒙」のままでいる呂蒙を見かね、孫権は呂蒙に学問を勧めました。
呂蒙は「軍中は何かと忙しく、書物を読む時間を取れない」と返しましたが、
孫権は「主君である私でも忙しい中勉強できたのだ。博士になろうとしなくていいから、歴史を見渡して見識を広めてみてはどうか」と、どの書物を読んで学ぶべきかを教えたといいます。
さて、呂蒙の努力家ぶりが世に示されるのはここからです。
孫権に無学を指摘されて恥入った呂蒙は、発奮して本の虫となり、勉強を続けました。呂蒙は見る見るうちに教養を身につけます。
最終的に、その勉強量は本来の専門学者である儒学者さえも敵わぬほどであったと言われています。
勇猛なれど無学であった呂蒙を軽蔑していた知識人の魯粛は、日に日に上がる呂蒙の評判を聞いて挨拶に向かいました。
実際に語り合った呂蒙は、以前とは比較できないほどの慧眼や学識を兼ね備えた大人物へと成長していたのです。
喜んだ魯粛は、「昔言われていた『呉下の阿蒙』であったとはとても思えない」と称賛しました。
対して呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」、つまり「士たるもの、別れて三日もすれば随分と成長しているものであって、また次に会う時が目をこすって違う目でみなければなりませんよ」と答えたのです。
その顔つきは、かつて魯粛が軽蔑していた猪武者の姿ではありませんでした。
「士別れて三日なれば、刮目して相待すべし」とは、
日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているということ。
転じて、いつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとして見よという意味で使われています。
また、この呂蒙の逸話からは、次の3つの学ぶべきポイントがあります。
ひとつは、孫権が呂蒙に学問を勧めたこと。つまり、変わるための「きっかけ」があったということ。
二つ目に、呂蒙が変わることができたのは、変わるために勉学に励むなど努力を続けたということ。つまり、人は自分の考え方や行いを「変える」ことで、変わるんだということ。
三つ目は、呂蒙は、自分のためを思って言ってくれる孫権の言葉を「素直」に受け入れたこと。
つまり呂蒙は、孫権の言葉を「きっかけ」に、「素直」にその言葉に従い、自分を「変える」ための努力を惜しまなかったことで大いに成長できたのです。